5月に観た芝居の感想
5月に観た芝居の感想を駆け足で。ツイッターに書いたものは、それを加筆して転載。
本当は観たすぐ後にツイッターでつぶやけばいいのだけれど、ひと言ふた言の感想を書くのにも、私は意外と慎重になる性質で、しかもいちいち時間がかかって、帰宅の電車の中、携帯でサラサラ書くことができない。書く時間を割いて芝居に行っている場合、待っていてくれている編集さんの手前、なかなかそれもしづらい。帰宅したら帰宅したで手間取って、なかなかまとめられず、結局、時期を逸してしまう。なので、完全にアウト・オブ・タイムではあるけれど、とりあえず、まったく意味がないわけではないだろうと記録する。
◎NODA・MAP『THE BEE』ジャパニーズバージョン
ぴあのサイトにレポートを書いたので、そちらを。
http://ticket-news.pia.jp/pia/news.do?newsCd=201205070006
◎渡辺源四郎商店『翔べ!原子力ロボむつ』
初なべげん(渡辺源四郎商店)。
とにかく畑澤聖悟の脚本が上手い。最初のセリフからして、演劇を観たことのない人でも間違いなく耳をそばだてるであろうキャッチーさ。その後がまた、さらに上手い。「出てきた人が変なこと言ってるけど、どうなるの?」と興味を持った観客を、不条理な展開で置き去りにすることも、笑いの方向に誘導して想像力を殺すこともせず、適度な柔らかさと知性で刺激し続けるせりふが続く。幕開けすぐのせりふはほとんどの劇作家が工夫するところだろうが、徐々に、あるいは急速にレベルが落ちていく人が多いのだ。
その後も、新しい問題を発生させては、その前の問題を観客がごく自然に忘れるようにし、完全に忘れ去るギリギリのタイミングで再び引っ張り出す。そうやって、縄を編むように観客自身がエピソードをまとめ、物語を太くしていくように仕向ける。その体感時間の見事さたるや。嫌味でなく、「いい戯曲の書き方」の見本になるような作品だった。
内容は、放射能の廃棄物問題を問う、近未来SF。青森を活動拠点にするなべげんにとっては、核廃棄物は、東日本大震災のがれきが取り沙汰される以前から大きな問題なのだ。
だが皮肉なことに、作品がウェルメイド過ぎて、その重さ、現実とのつながりを忘れてしまうという危険性が生まれる。
それをかろうじて押しとどめたのは、ダサいタイトルだ。内容の完成度に対して、あまりにもセンスがない。そんなノッキングが起きた時、「この優れた脚本を書いた人が、無自覚にこんなタイトルを付けるはずはない」と思い、「これは絵空事ではないのだ、かっこ悪くて、思い通りに行かない現実とつながっているのだ」と感じる。優れた物語が、そのスムーズさゆえにフィクションのカテゴリーに振り分けられるのを回避する、サムいタイトル。『翔べ!原子力ロボむつ』というタイトルに引いて、観に行くのをやめないでよかった。
◎うさぎストライプ『おかえりなさいⅡ』
墜落した飛行機に乗っていた人々の、事故によって忽然と関係が断ち切られてしまった人との、それまでの日々や、幸福な展開があったかもしれない未来の予感が、並行して描かれた。たとえばひとりの若い男性は、付き合い始めた彼女との恋をきちんと始めるため、彼女に「好きだ」と言うために、かつての交際していた女性に「好きだった」と言わなければならないと、その女性が暮らしているフランスに行くところだった。
こうした、気の利いた少女マンガにありそうなセンチメンタルを、作・演出の大池容子は決して甘いまま舞台上に乗せない。前述の男性を演じた俳優には、せりふを喋りながら次々と女性出演者を持ち上げて運ぶ、という動きを課す。つまり、ストーリーとはまったく関係のない身体的負荷をかけられることで、俳優がセンチメンタルへの没入することを禁じるのだ。
まだ20代前半の大池の、この知能犯的清潔感は、信頼に足るものではないか?
また、劇団員である亀山浩史は、大池と同世代の若さだが、この人の持つ“母性をも超える大きな父性”は、『ベティ・ブルー』のジャン・ユーグ・アングラードを思い出させる。この人の個性は、日本の男優の中ではとても貴重。
◎ナイロン100℃『百年の秘密』
2回観てわかった、大事な秘密。
冒頭、ベイカー家の年老いた家政婦メアリーが語り部として現れ、登場人物の説明をするのだが──。
実は劇中、メアリーは50歳になる前に交通事故で死んでいて、彼女が実際に老婆になることはない。やはり劇中、ベイカー家の妻が「年を取ると、生きている人間に話しかけるのと同じくらい、死んだ人間とも話すのよ」と言うのだが、すでに物語の最初から、私達観客が死者と対話しているのだ。何という心憎い仕掛け!
◎『シダの群れ 純情巡礼編』
約25年、岩松作品を追いかけ、岩松作品を自分の言葉でつかまえることが職業的目標のひとつであるファンとして書く。こんなに落胆した作品はなかった。
まず美術が失敗している。抽象を意識したとあとで聞いたが、抽象とは、舞台上には存在しないイメージの像を、観客の脳内で結ばせるもののはず。戯曲にあるビジュアルのイメージを拾わず、俳優の声を虚しく吸い込む空間は、抽象でも具象でもない。
だがやはり問題は戯曲と演出だ。キリがないのでひとつだけ、戯曲の最大の問題点を書くと、わかりにくいのに謎がない。苛立ち、ぶつかり合い、空回る人々の後ろで、その喧騒より存在感を放つ、決して追いつかない、巨大過ぎて文学的な岩松作品の“謎”はどこに?
この作品を観て「岩松了の舞台はつまらない」と判断されてしまうのは悲しい。でもこれで「さすが岩松了」と言われたら悔しい。こんなものではないのだ、断じて。
◎『海辺のカフカ』
固定のセットはなく、美術はすべて、巨大な水槽のような透明の箱に収められている。カフカ少年の家、図書館、高速のSA、トラック、交番、旅館、神社の境内などが、スチールパイプで縁取られたキューブに入って、舞台上をスルスルと(ちなみにこれ、すべて人力で)移動する。
その四角がいくつか並んでいるのを観た時、ああ、これは小説の“段落”を可視化したものだ、と気付いた。段落が集まってひとつの小説を構成するという、本を開いた時に目の前に広がるビジュアルが、立体になったのだと。
その途端、SAの椅子や境内の木々といったモノが、小説の成分であるモジに見えた。この見立てが深読みでないと確信するのは、舞台からセットも俳優も消えた時、小さなピンスポが黒い床に当たって、いくつもの白い丸が現れるから。あれは間違いなく句読点の「。」。蜷川組、さすがのアイデアと、その実現度。
また、2つの透明なキューブを手前と奥に重ね合わせたカフカ少年と佐伯さんの交歓のシーンは、舞台作品におけるラブシーン史上、屈指の美しさ。
そして、主人公カフカの影であるカラスを演じた柿澤勇人がとてもよかった。カフカとしか会話しないのだが、ふたりの間でそれが閉じず、客席にも開かれていたのは、彼の居方によるところが大きい。イケメン俳優君だけれども、これからもいい作品、演出家と出合っていけるといい。
◎『ロミオとジュリエット』
収穫は石原さとみ。彼女が喋ると14歳という設定が本当になる。特にバルコニーのシーン、あのせりふをあれだけ柔らかく、瑞々しく軽やかに発する女優を初めて観た。佐藤健も健闘していたが、さすがに石原の前では霞んでしまった。彼が持つと類まれなる繊細さが生きる作品が、次の舞台に選ばれることを期待。
演出にはあまり乗れず。ジョナサン・マンビィは30歳前後の若さと聞くが、それがにわかに信じられなかった。日本を表現するのに龍や般若の絵、現代を舞台にしているというイマドキ感を出すのにラップやDJをバク転を出すセンスは、あまりに類型的で、“現代”をむしろ“ちょっと古い現代”にしてしまった。乳母がずっとヒールのある靴を履き、こぎれいなドレスでいたことにも違和感を感じ続けた。
◎東京デスロック『モラトリアム』
せりふ無し。舞台も客席も区別なし。上演時間は13時~21時で、観客は、自分のモラトリアムが終わったと思ったら出ていくというルール──。と、スペックはハードコアだったが、俳優によって示された時間の過ごし方や会場に用意されたモノは「こうすると豊かな(演劇的な)時間が生まれますよ」という示唆に満ちていて、何ともホスピタリティ豊かなモラトリアムだった。私はそのあとに芝居の予定があったから3時間ぐらいに出てしまったが、最後まで居続けてもそれなりに快適で、退屈ではなかったと思う。私が行ったのは2日目で、どんな内容かという情報が漏れていたからかもしれないが、ほとんどの観客がリラックスし、楽しそうで、少なくとも時間を持て余しているようには見えなかった。となると「モラトリアムって何?」なのだが。
◎演劇集団砂地『貯水池』
2度目の砂地。登場する男女の間に常に情念が流れているような、本来、私があまり好きではないタイプの作風。それを再び観に行って改めて確認したのは、作・演出の船岩祐太には高い演出力があるということ。ふたりの会話であっても、そのシーンに関係のない人物を同じ空間に置いて「挑発/応酬/冷静」「懐柔/反発/理解」といった3つ目の視点を存在させたのは、情念を扱いつつも情念の外側にも意識を広げているのを示した。
◎はえぎわ『I’m (w)here』
前2作でおこなった、俳優が壁や床にチョークで字や絵を描(書)き、せりふで語られる物語とシンクロさせていく手法は、今回は無し。「発明だ!」と思えるような鮮やかな手法だった分、3度目は無いだろうと思っていたが、問題は次の手をどうするのかで、期待と不安が同時にあった。しかし結果、心配は完全に杞憂だった。
作・演出のノゾエ征爾の中で“ゼロ地点からの複数の物語をほぼ同時に、平等に立ち上げる”ための回路は、完全に開き、それはこれからも安定しているだろう。今回は舞台の奥に何の特徴もない壁を1枚置き、登場人物のひとりを“猿としての振る舞いを求められる人間”にして、場面転換や人物の移り変わりの抽象性を、観客にはそれと知られぬ自然さで一気に高めた。
また今回特筆すべきなのは、俳優の成長。全員が同じボリュームの役を演じ、同じボリュームの印象を残せたのは、今回が初めてではないか。確か結成13年目のはえぎわだが、蓄積してきたものがようやく開花したと感じた。浮かれているのではない、静かな自信は好ましい。
◎バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!輪姦学校』
出演者のひとりがパフォーマンスの一環として観客の女性を舞台に上げて胸を揉んだことが大きな問題へと発展したが、ここでは作品に対する感想のみ。
私が今まで観たバナナ学園の作品の中で、最も美しさが足りない作品だった。ダンスのフォーメーションの緩さはちょっとショックなほどで、人数が少なかったことだけに原因を求められない。ダイアローグの間、モノローグのタイミングの悪さはPAの問題か? 美術や衣装や小道具も、これまでの過剰なカオスにまで行きつかない中途半端さを感じた。
二階堂瞳子の美意識、それを実現するカリスマ性を私は強く信じているし、バナナ学園の集団としての結束力にも、通常の劇団とは違う可能性を感じているのだが、今回はそれらがうまく発揮されていなかった。その理由は何だろう?(今作がシェイクスピア作品を題材にしたからでないことは確か。バナナはそんなにヤワではない)
◎イキウメ『ミッション』
いつもは脚本も演出も前川知大が手がけているが、今作では演出のみ初めて小川絵梨子に依頼。それで見えてきたのは、前川戯曲が持つ弱さだった。
特に今作は、世界の安定を自分が支えていると信じる主夫・怜司の持論、欲望と本能と聞こえてくる声の理論が、まず弱い。だから、それを観客に周知させるために費やす時間が長くなる。その世界観を裏打ちするために配置する人物が、どうしてもステレオタイプになる。前川演出では、カットインやカットアウトでそれが目立たないわけで。
上演時間が長いと感じたのは、小川演出にも前川戯曲にも原因がある。
鳥公園『すがれる』
作・演出の西尾佳織、大化け。脚本も、演出も、なんたるスケール感。この作品で語られる言葉の、意味やニュアンスや効果がわかるという点で、日本語が母国語であることに感謝。ヌケヌケとして野蛮で艶やかで知的でどこか好戦的で、つまり、素晴らしく自立した女偏(おんなへん)の演劇!
ストーリーらしいストーリーは無い。当日パンフレットに西尾が書いていたように「受け取れなかった言葉」とか「発したまんま宙に浮いた言葉」といった「言葉の届かなさ」を、いくつかの具体的な会話に落とし込んだ短いシーンがいくつか続く。
その会話を交わすふたりの距離が実にさまざま。なだけでなく、相手の正体が知れない/相手を知らない(愛の告白しているのに名前を間違えている。友達なのに名前を知らない。見えない。そもそも人間ではない)というフックが、声高でなく仕掛けてあるところにうなった。この「声高でない」に、西尾の今回の飛躍がある。例えるなら1曲の中で緩急をつけるのでなく、楽器ごとに丁寧にチューニングして銘々演奏させ、それを「曲です」と言っている感じ。そして実際、曲として立派に成立している。
でも私が本当に惹かれたのは、さらに奥に感じた“何か巨大なもの”。 それが何かを知りたくて翌日もう1度この作品を観に行ったのだが、多分、西尾の頭の中には、人間の営みと自然がリアルに地続きなのではないか。去年の『おねしょ沼の終わらない温かさについて』も沼が舞台だったし、西尾の物語の中で自然は当たり前に、ぬけぬけと存在する。今作最高のシーンは、暗い山の上で便器にまたがり、1滴でいいから放尿したいと謙虚に願う老人だ。その名付け得ぬ孤独。あれは間違いなく闇の山頂でなければならなかった。
それにしても、去年の『おねしょ沼~』からの飛躍は奇跡的。俳優は全員よかったけど、特におじいさんを演じた若林里枝が、暗闇とか老いを体内に抱え、それを当たり前の軽やかさで外に出していてに感心した。
そして西尾の、尿に対するこだわりは何だ?(笑)
本当は観たすぐ後にツイッターでつぶやけばいいのだけれど、ひと言ふた言の感想を書くのにも、私は意外と慎重になる性質で、しかもいちいち時間がかかって、帰宅の電車の中、携帯でサラサラ書くことができない。書く時間を割いて芝居に行っている場合、待っていてくれている編集さんの手前、なかなかそれもしづらい。帰宅したら帰宅したで手間取って、なかなかまとめられず、結局、時期を逸してしまう。なので、完全にアウト・オブ・タイムではあるけれど、とりあえず、まったく意味がないわけではないだろうと記録する。
◎NODA・MAP『THE BEE』ジャパニーズバージョン
ぴあのサイトにレポートを書いたので、そちらを。
http://ticket-news.pia.jp/pia/news.do?newsCd=201205070006
◎渡辺源四郎商店『翔べ!原子力ロボむつ』
初なべげん(渡辺源四郎商店)。
とにかく畑澤聖悟の脚本が上手い。最初のセリフからして、演劇を観たことのない人でも間違いなく耳をそばだてるであろうキャッチーさ。その後がまた、さらに上手い。「出てきた人が変なこと言ってるけど、どうなるの?」と興味を持った観客を、不条理な展開で置き去りにすることも、笑いの方向に誘導して想像力を殺すこともせず、適度な柔らかさと知性で刺激し続けるせりふが続く。幕開けすぐのせりふはほとんどの劇作家が工夫するところだろうが、徐々に、あるいは急速にレベルが落ちていく人が多いのだ。
その後も、新しい問題を発生させては、その前の問題を観客がごく自然に忘れるようにし、完全に忘れ去るギリギリのタイミングで再び引っ張り出す。そうやって、縄を編むように観客自身がエピソードをまとめ、物語を太くしていくように仕向ける。その体感時間の見事さたるや。嫌味でなく、「いい戯曲の書き方」の見本になるような作品だった。
内容は、放射能の廃棄物問題を問う、近未来SF。青森を活動拠点にするなべげんにとっては、核廃棄物は、東日本大震災のがれきが取り沙汰される以前から大きな問題なのだ。
だが皮肉なことに、作品がウェルメイド過ぎて、その重さ、現実とのつながりを忘れてしまうという危険性が生まれる。
それをかろうじて押しとどめたのは、ダサいタイトルだ。内容の完成度に対して、あまりにもセンスがない。そんなノッキングが起きた時、「この優れた脚本を書いた人が、無自覚にこんなタイトルを付けるはずはない」と思い、「これは絵空事ではないのだ、かっこ悪くて、思い通りに行かない現実とつながっているのだ」と感じる。優れた物語が、そのスムーズさゆえにフィクションのカテゴリーに振り分けられるのを回避する、サムいタイトル。『翔べ!原子力ロボむつ』というタイトルに引いて、観に行くのをやめないでよかった。
◎うさぎストライプ『おかえりなさいⅡ』
墜落した飛行機に乗っていた人々の、事故によって忽然と関係が断ち切られてしまった人との、それまでの日々や、幸福な展開があったかもしれない未来の予感が、並行して描かれた。たとえばひとりの若い男性は、付き合い始めた彼女との恋をきちんと始めるため、彼女に「好きだ」と言うために、かつての交際していた女性に「好きだった」と言わなければならないと、その女性が暮らしているフランスに行くところだった。
こうした、気の利いた少女マンガにありそうなセンチメンタルを、作・演出の大池容子は決して甘いまま舞台上に乗せない。前述の男性を演じた俳優には、せりふを喋りながら次々と女性出演者を持ち上げて運ぶ、という動きを課す。つまり、ストーリーとはまったく関係のない身体的負荷をかけられることで、俳優がセンチメンタルへの没入することを禁じるのだ。
まだ20代前半の大池の、この知能犯的清潔感は、信頼に足るものではないか?
また、劇団員である亀山浩史は、大池と同世代の若さだが、この人の持つ“母性をも超える大きな父性”は、『ベティ・ブルー』のジャン・ユーグ・アングラードを思い出させる。この人の個性は、日本の男優の中ではとても貴重。
◎ナイロン100℃『百年の秘密』
2回観てわかった、大事な秘密。
冒頭、ベイカー家の年老いた家政婦メアリーが語り部として現れ、登場人物の説明をするのだが──。
実は劇中、メアリーは50歳になる前に交通事故で死んでいて、彼女が実際に老婆になることはない。やはり劇中、ベイカー家の妻が「年を取ると、生きている人間に話しかけるのと同じくらい、死んだ人間とも話すのよ」と言うのだが、すでに物語の最初から、私達観客が死者と対話しているのだ。何という心憎い仕掛け!
◎『シダの群れ 純情巡礼編』
約25年、岩松作品を追いかけ、岩松作品を自分の言葉でつかまえることが職業的目標のひとつであるファンとして書く。こんなに落胆した作品はなかった。
まず美術が失敗している。抽象を意識したとあとで聞いたが、抽象とは、舞台上には存在しないイメージの像を、観客の脳内で結ばせるもののはず。戯曲にあるビジュアルのイメージを拾わず、俳優の声を虚しく吸い込む空間は、抽象でも具象でもない。
だがやはり問題は戯曲と演出だ。キリがないのでひとつだけ、戯曲の最大の問題点を書くと、わかりにくいのに謎がない。苛立ち、ぶつかり合い、空回る人々の後ろで、その喧騒より存在感を放つ、決して追いつかない、巨大過ぎて文学的な岩松作品の“謎”はどこに?
この作品を観て「岩松了の舞台はつまらない」と判断されてしまうのは悲しい。でもこれで「さすが岩松了」と言われたら悔しい。こんなものではないのだ、断じて。
◎『海辺のカフカ』
固定のセットはなく、美術はすべて、巨大な水槽のような透明の箱に収められている。カフカ少年の家、図書館、高速のSA、トラック、交番、旅館、神社の境内などが、スチールパイプで縁取られたキューブに入って、舞台上をスルスルと(ちなみにこれ、すべて人力で)移動する。
その四角がいくつか並んでいるのを観た時、ああ、これは小説の“段落”を可視化したものだ、と気付いた。段落が集まってひとつの小説を構成するという、本を開いた時に目の前に広がるビジュアルが、立体になったのだと。
その途端、SAの椅子や境内の木々といったモノが、小説の成分であるモジに見えた。この見立てが深読みでないと確信するのは、舞台からセットも俳優も消えた時、小さなピンスポが黒い床に当たって、いくつもの白い丸が現れるから。あれは間違いなく句読点の「。」。蜷川組、さすがのアイデアと、その実現度。
また、2つの透明なキューブを手前と奥に重ね合わせたカフカ少年と佐伯さんの交歓のシーンは、舞台作品におけるラブシーン史上、屈指の美しさ。
そして、主人公カフカの影であるカラスを演じた柿澤勇人がとてもよかった。カフカとしか会話しないのだが、ふたりの間でそれが閉じず、客席にも開かれていたのは、彼の居方によるところが大きい。イケメン俳優君だけれども、これからもいい作品、演出家と出合っていけるといい。
◎『ロミオとジュリエット』
収穫は石原さとみ。彼女が喋ると14歳という設定が本当になる。特にバルコニーのシーン、あのせりふをあれだけ柔らかく、瑞々しく軽やかに発する女優を初めて観た。佐藤健も健闘していたが、さすがに石原の前では霞んでしまった。彼が持つと類まれなる繊細さが生きる作品が、次の舞台に選ばれることを期待。
演出にはあまり乗れず。ジョナサン・マンビィは30歳前後の若さと聞くが、それがにわかに信じられなかった。日本を表現するのに龍や般若の絵、現代を舞台にしているというイマドキ感を出すのにラップやDJをバク転を出すセンスは、あまりに類型的で、“現代”をむしろ“ちょっと古い現代”にしてしまった。乳母がずっとヒールのある靴を履き、こぎれいなドレスでいたことにも違和感を感じ続けた。
◎東京デスロック『モラトリアム』
せりふ無し。舞台も客席も区別なし。上演時間は13時~21時で、観客は、自分のモラトリアムが終わったと思ったら出ていくというルール──。と、スペックはハードコアだったが、俳優によって示された時間の過ごし方や会場に用意されたモノは「こうすると豊かな(演劇的な)時間が生まれますよ」という示唆に満ちていて、何ともホスピタリティ豊かなモラトリアムだった。私はそのあとに芝居の予定があったから3時間ぐらいに出てしまったが、最後まで居続けてもそれなりに快適で、退屈ではなかったと思う。私が行ったのは2日目で、どんな内容かという情報が漏れていたからかもしれないが、ほとんどの観客がリラックスし、楽しそうで、少なくとも時間を持て余しているようには見えなかった。となると「モラトリアムって何?」なのだが。
◎演劇集団砂地『貯水池』
2度目の砂地。登場する男女の間に常に情念が流れているような、本来、私があまり好きではないタイプの作風。それを再び観に行って改めて確認したのは、作・演出の船岩祐太には高い演出力があるということ。ふたりの会話であっても、そのシーンに関係のない人物を同じ空間に置いて「挑発/応酬/冷静」「懐柔/反発/理解」といった3つ目の視点を存在させたのは、情念を扱いつつも情念の外側にも意識を広げているのを示した。
◎はえぎわ『I’m (w)here』
前2作でおこなった、俳優が壁や床にチョークで字や絵を描(書)き、せりふで語られる物語とシンクロさせていく手法は、今回は無し。「発明だ!」と思えるような鮮やかな手法だった分、3度目は無いだろうと思っていたが、問題は次の手をどうするのかで、期待と不安が同時にあった。しかし結果、心配は完全に杞憂だった。
作・演出のノゾエ征爾の中で“ゼロ地点からの複数の物語をほぼ同時に、平等に立ち上げる”ための回路は、完全に開き、それはこれからも安定しているだろう。今回は舞台の奥に何の特徴もない壁を1枚置き、登場人物のひとりを“猿としての振る舞いを求められる人間”にして、場面転換や人物の移り変わりの抽象性を、観客にはそれと知られぬ自然さで一気に高めた。
また今回特筆すべきなのは、俳優の成長。全員が同じボリュームの役を演じ、同じボリュームの印象を残せたのは、今回が初めてではないか。確か結成13年目のはえぎわだが、蓄積してきたものがようやく開花したと感じた。浮かれているのではない、静かな自信は好ましい。
◎バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!輪姦学校』
出演者のひとりがパフォーマンスの一環として観客の女性を舞台に上げて胸を揉んだことが大きな問題へと発展したが、ここでは作品に対する感想のみ。
私が今まで観たバナナ学園の作品の中で、最も美しさが足りない作品だった。ダンスのフォーメーションの緩さはちょっとショックなほどで、人数が少なかったことだけに原因を求められない。ダイアローグの間、モノローグのタイミングの悪さはPAの問題か? 美術や衣装や小道具も、これまでの過剰なカオスにまで行きつかない中途半端さを感じた。
二階堂瞳子の美意識、それを実現するカリスマ性を私は強く信じているし、バナナ学園の集団としての結束力にも、通常の劇団とは違う可能性を感じているのだが、今回はそれらがうまく発揮されていなかった。その理由は何だろう?(今作がシェイクスピア作品を題材にしたからでないことは確か。バナナはそんなにヤワではない)
◎イキウメ『ミッション』
いつもは脚本も演出も前川知大が手がけているが、今作では演出のみ初めて小川絵梨子に依頼。それで見えてきたのは、前川戯曲が持つ弱さだった。
特に今作は、世界の安定を自分が支えていると信じる主夫・怜司の持論、欲望と本能と聞こえてくる声の理論が、まず弱い。だから、それを観客に周知させるために費やす時間が長くなる。その世界観を裏打ちするために配置する人物が、どうしてもステレオタイプになる。前川演出では、カットインやカットアウトでそれが目立たないわけで。
上演時間が長いと感じたのは、小川演出にも前川戯曲にも原因がある。
鳥公園『すがれる』
作・演出の西尾佳織、大化け。脚本も、演出も、なんたるスケール感。この作品で語られる言葉の、意味やニュアンスや効果がわかるという点で、日本語が母国語であることに感謝。ヌケヌケとして野蛮で艶やかで知的でどこか好戦的で、つまり、素晴らしく自立した女偏(おんなへん)の演劇!
ストーリーらしいストーリーは無い。当日パンフレットに西尾が書いていたように「受け取れなかった言葉」とか「発したまんま宙に浮いた言葉」といった「言葉の届かなさ」を、いくつかの具体的な会話に落とし込んだ短いシーンがいくつか続く。
その会話を交わすふたりの距離が実にさまざま。なだけでなく、相手の正体が知れない/相手を知らない(愛の告白しているのに名前を間違えている。友達なのに名前を知らない。見えない。そもそも人間ではない)というフックが、声高でなく仕掛けてあるところにうなった。この「声高でない」に、西尾の今回の飛躍がある。例えるなら1曲の中で緩急をつけるのでなく、楽器ごとに丁寧にチューニングして銘々演奏させ、それを「曲です」と言っている感じ。そして実際、曲として立派に成立している。
でも私が本当に惹かれたのは、さらに奥に感じた“何か巨大なもの”。 それが何かを知りたくて翌日もう1度この作品を観に行ったのだが、多分、西尾の頭の中には、人間の営みと自然がリアルに地続きなのではないか。去年の『おねしょ沼の終わらない温かさについて』も沼が舞台だったし、西尾の物語の中で自然は当たり前に、ぬけぬけと存在する。今作最高のシーンは、暗い山の上で便器にまたがり、1滴でいいから放尿したいと謙虚に願う老人だ。その名付け得ぬ孤独。あれは間違いなく闇の山頂でなければならなかった。
それにしても、去年の『おねしょ沼~』からの飛躍は奇跡的。俳優は全員よかったけど、特におじいさんを演じた若林里枝が、暗闇とか老いを体内に抱え、それを当たり前の軽やかさで外に出していてに感心した。
そして西尾の、尿に対するこだわりは何だ?(笑)
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by word-robe89
| 2012-06-06 13:57
| 劇評