徳永京子(演劇ジャーナリスト)の覚え書きなど。Twitterもやってます。アカウントはk_tokunaga
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5月に観た芝居の感想

5月に観た芝居の感想を駆け足で。ツイッターに書いたものは、それを加筆して転載。

本当は観たすぐ後にツイッターでつぶやけばいいのだけれど、ひと言ふた言の感想を書くのにも、私は意外と慎重になる性質で、しかもいちいち時間がかかって、帰宅の電車の中、携帯でサラサラ書くことができない。書く時間を割いて芝居に行っている場合、待っていてくれている編集さんの手前、なかなかそれもしづらい。帰宅したら帰宅したで手間取って、なかなかまとめられず、結局、時期を逸してしまう。なので、完全にアウト・オブ・タイムではあるけれど、とりあえず、まったく意味がないわけではないだろうと記録する。


◎NODA・MAP『THE BEE』ジャパニーズバージョン
ぴあのサイトにレポートを書いたので、そちらを。
http://ticket-news.pia.jp/pia/news.do?newsCd=201205070006


◎渡辺源四郎商店『翔べ!原子力ロボむつ』
初なべげん(渡辺源四郎商店)。
とにかく畑澤聖悟の脚本が上手い。最初のセリフからして、演劇を観たことのない人でも間違いなく耳をそばだてるであろうキャッチーさ。その後がまた、さらに上手い。「出てきた人が変なこと言ってるけど、どうなるの?」と興味を持った観客を、不条理な展開で置き去りにすることも、笑いの方向に誘導して想像力を殺すこともせず、適度な柔らかさと知性で刺激し続けるせりふが続く。幕開けすぐのせりふはほとんどの劇作家が工夫するところだろうが、徐々に、あるいは急速にレベルが落ちていく人が多いのだ。
その後も、新しい問題を発生させては、その前の問題を観客がごく自然に忘れるようにし、完全に忘れ去るギリギリのタイミングで再び引っ張り出す。そうやって、縄を編むように観客自身がエピソードをまとめ、物語を太くしていくように仕向ける。その体感時間の見事さたるや。嫌味でなく、「いい戯曲の書き方」の見本になるような作品だった。
内容は、放射能の廃棄物問題を問う、近未来SF。青森を活動拠点にするなべげんにとっては、核廃棄物は、東日本大震災のがれきが取り沙汰される以前から大きな問題なのだ。
だが皮肉なことに、作品がウェルメイド過ぎて、その重さ、現実とのつながりを忘れてしまうという危険性が生まれる。
それをかろうじて押しとどめたのは、ダサいタイトルだ。内容の完成度に対して、あまりにもセンスがない。そんなノッキングが起きた時、「この優れた脚本を書いた人が、無自覚にこんなタイトルを付けるはずはない」と思い、「これは絵空事ではないのだ、かっこ悪くて、思い通りに行かない現実とつながっているのだ」と感じる。優れた物語が、そのスムーズさゆえにフィクションのカテゴリーに振り分けられるのを回避する、サムいタイトル。『翔べ!原子力ロボむつ』というタイトルに引いて、観に行くのをやめないでよかった。


◎うさぎストライプ『おかえりなさいⅡ』
墜落した飛行機に乗っていた人々の、事故によって忽然と関係が断ち切られてしまった人との、それまでの日々や、幸福な展開があったかもしれない未来の予感が、並行して描かれた。たとえばひとりの若い男性は、付き合い始めた彼女との恋をきちんと始めるため、彼女に「好きだ」と言うために、かつての交際していた女性に「好きだった」と言わなければならないと、その女性が暮らしているフランスに行くところだった。
こうした、気の利いた少女マンガにありそうなセンチメンタルを、作・演出の大池容子は決して甘いまま舞台上に乗せない。前述の男性を演じた俳優には、せりふを喋りながら次々と女性出演者を持ち上げて運ぶ、という動きを課す。つまり、ストーリーとはまったく関係のない身体的負荷をかけられることで、俳優がセンチメンタルへの没入することを禁じるのだ。
まだ20代前半の大池の、この知能犯的清潔感は、信頼に足るものではないか?
また、劇団員である亀山浩史は、大池と同世代の若さだが、この人の持つ“母性をも超える大きな父性”は、『ベティ・ブルー』のジャン・ユーグ・アングラードを思い出させる。この人の個性は、日本の男優の中ではとても貴重。


◎ナイロン100℃『百年の秘密』
2回観てわかった、大事な秘密。
冒頭、ベイカー家の年老いた家政婦メアリーが語り部として現れ、登場人物の説明をするのだが──。
実は劇中、メアリーは50歳になる前に交通事故で死んでいて、彼女が実際に老婆になることはない。やはり劇中、ベイカー家の妻が「年を取ると、生きている人間に話しかけるのと同じくらい、死んだ人間とも話すのよ」と言うのだが、すでに物語の最初から、私達観客が死者と対話しているのだ。何という心憎い仕掛け!


◎『シダの群れ 純情巡礼編』
約25年、岩松作品を追いかけ、岩松作品を自分の言葉でつかまえることが職業的目標のひとつであるファンとして書く。こんなに落胆した作品はなかった。
まず美術が失敗している。抽象を意識したとあとで聞いたが、抽象とは、舞台上には存在しないイメージの像を、観客の脳内で結ばせるもののはず。戯曲にあるビジュアルのイメージを拾わず、俳優の声を虚しく吸い込む空間は、抽象でも具象でもない。
だがやはり問題は戯曲と演出だ。キリがないのでひとつだけ、戯曲の最大の問題点を書くと、わかりにくいのに謎がない。苛立ち、ぶつかり合い、空回る人々の後ろで、その喧騒より存在感を放つ、決して追いつかない、巨大過ぎて文学的な岩松作品の“謎”はどこに?
この作品を観て「岩松了の舞台はつまらない」と判断されてしまうのは悲しい。でもこれで「さすが岩松了」と言われたら悔しい。こんなものではないのだ、断じて。


◎『海辺のカフカ』
固定のセットはなく、美術はすべて、巨大な水槽のような透明の箱に収められている。カフカ少年の家、図書館、高速のSA、トラック、交番、旅館、神社の境内などが、スチールパイプで縁取られたキューブに入って、舞台上をスルスルと(ちなみにこれ、すべて人力で)移動する。
その四角がいくつか並んでいるのを観た時、ああ、これは小説の“段落”を可視化したものだ、と気付いた。段落が集まってひとつの小説を構成するという、本を開いた時に目の前に広がるビジュアルが、立体になったのだと。
その途端、SAの椅子や境内の木々といったモノが、小説の成分であるモジに見えた。この見立てが深読みでないと確信するのは、舞台からセットも俳優も消えた時、小さなピンスポが黒い床に当たって、いくつもの白い丸が現れるから。あれは間違いなく句読点の「。」。蜷川組、さすがのアイデアと、その実現度。
また、2つの透明なキューブを手前と奥に重ね合わせたカフカ少年と佐伯さんの交歓のシーンは、舞台作品におけるラブシーン史上、屈指の美しさ。
そして、主人公カフカの影であるカラスを演じた柿澤勇人がとてもよかった。カフカとしか会話しないのだが、ふたりの間でそれが閉じず、客席にも開かれていたのは、彼の居方によるところが大きい。イケメン俳優君だけれども、これからもいい作品、演出家と出合っていけるといい。


◎『ロミオとジュリエット』
収穫は石原さとみ。彼女が喋ると14歳という設定が本当になる。特にバルコニーのシーン、あのせりふをあれだけ柔らかく、瑞々しく軽やかに発する女優を初めて観た。佐藤健も健闘していたが、さすがに石原の前では霞んでしまった。彼が持つと類まれなる繊細さが生きる作品が、次の舞台に選ばれることを期待。
演出にはあまり乗れず。ジョナサン・マンビィは30歳前後の若さと聞くが、それがにわかに信じられなかった。日本を表現するのに龍や般若の絵、現代を舞台にしているというイマドキ感を出すのにラップやDJをバク転を出すセンスは、あまりに類型的で、“現代”をむしろ“ちょっと古い現代”にしてしまった。乳母がずっとヒールのある靴を履き、こぎれいなドレスでいたことにも違和感を感じ続けた。


◎東京デスロック『モラトリアム』
せりふ無し。舞台も客席も区別なし。上演時間は13時~21時で、観客は、自分のモラトリアムが終わったと思ったら出ていくというルール──。と、スペックはハードコアだったが、俳優によって示された時間の過ごし方や会場に用意されたモノは「こうすると豊かな(演劇的な)時間が生まれますよ」という示唆に満ちていて、何ともホスピタリティ豊かなモラトリアムだった。私はそのあとに芝居の予定があったから3時間ぐらいに出てしまったが、最後まで居続けてもそれなりに快適で、退屈ではなかったと思う。私が行ったのは2日目で、どんな内容かという情報が漏れていたからかもしれないが、ほとんどの観客がリラックスし、楽しそうで、少なくとも時間を持て余しているようには見えなかった。となると「モラトリアムって何?」なのだが。


◎演劇集団砂地『貯水池』
2度目の砂地。登場する男女の間に常に情念が流れているような、本来、私があまり好きではないタイプの作風。それを再び観に行って改めて確認したのは、作・演出の船岩祐太には高い演出力があるということ。ふたりの会話であっても、そのシーンに関係のない人物を同じ空間に置いて「挑発/応酬/冷静」「懐柔/反発/理解」といった3つ目の視点を存在させたのは、情念を扱いつつも情念の外側にも意識を広げているのを示した。


◎はえぎわ『I’m (w)here』
前2作でおこなった、俳優が壁や床にチョークで字や絵を描(書)き、せりふで語られる物語とシンクロさせていく手法は、今回は無し。「発明だ!」と思えるような鮮やかな手法だった分、3度目は無いだろうと思っていたが、問題は次の手をどうするのかで、期待と不安が同時にあった。しかし結果、心配は完全に杞憂だった。
作・演出のノゾエ征爾の中で“ゼロ地点からの複数の物語をほぼ同時に、平等に立ち上げる”ための回路は、完全に開き、それはこれからも安定しているだろう。今回は舞台の奥に何の特徴もない壁を1枚置き、登場人物のひとりを“猿としての振る舞いを求められる人間”にして、場面転換や人物の移り変わりの抽象性を、観客にはそれと知られぬ自然さで一気に高めた。
また今回特筆すべきなのは、俳優の成長。全員が同じボリュームの役を演じ、同じボリュームの印象を残せたのは、今回が初めてではないか。確か結成13年目のはえぎわだが、蓄積してきたものがようやく開花したと感じた。浮かれているのではない、静かな自信は好ましい。


◎バナナ学園純情乙女組『翔べ翔べ翔べ!!!!輪姦学校』
出演者のひとりがパフォーマンスの一環として観客の女性を舞台に上げて胸を揉んだことが大きな問題へと発展したが、ここでは作品に対する感想のみ。
私が今まで観たバナナ学園の作品の中で、最も美しさが足りない作品だった。ダンスのフォーメーションの緩さはちょっとショックなほどで、人数が少なかったことだけに原因を求められない。ダイアローグの間、モノローグのタイミングの悪さはPAの問題か? 美術や衣装や小道具も、これまでの過剰なカオスにまで行きつかない中途半端さを感じた。
二階堂瞳子の美意識、それを実現するカリスマ性を私は強く信じているし、バナナ学園の集団としての結束力にも、通常の劇団とは違う可能性を感じているのだが、今回はそれらがうまく発揮されていなかった。その理由は何だろう?(今作がシェイクスピア作品を題材にしたからでないことは確か。バナナはそんなにヤワではない)


◎イキウメ『ミッション』
いつもは脚本も演出も前川知大が手がけているが、今作では演出のみ初めて小川絵梨子に依頼。それで見えてきたのは、前川戯曲が持つ弱さだった。
特に今作は、世界の安定を自分が支えていると信じる主夫・怜司の持論、欲望と本能と聞こえてくる声の理論が、まず弱い。だから、それを観客に周知させるために費やす時間が長くなる。その世界観を裏打ちするために配置する人物が、どうしてもステレオタイプになる。前川演出では、カットインやカットアウトでそれが目立たないわけで。
上演時間が長いと感じたのは、小川演出にも前川戯曲にも原因がある。


鳥公園『すがれる』
作・演出の西尾佳織、大化け。脚本も、演出も、なんたるスケール感。この作品で語られる言葉の、意味やニュアンスや効果がわかるという点で、日本語が母国語であることに感謝。ヌケヌケとして野蛮で艶やかで知的でどこか好戦的で、つまり、素晴らしく自立した女偏(おんなへん)の演劇!
ストーリーらしいストーリーは無い。当日パンフレットに西尾が書いていたように「受け取れなかった言葉」とか「発したまんま宙に浮いた言葉」といった「言葉の届かなさ」を、いくつかの具体的な会話に落とし込んだ短いシーンがいくつか続く。
その会話を交わすふたりの距離が実にさまざま。なだけでなく、相手の正体が知れない/相手を知らない(愛の告白しているのに名前を間違えている。友達なのに名前を知らない。見えない。そもそも人間ではない)というフックが、声高でなく仕掛けてあるところにうなった。この「声高でない」に、西尾の今回の飛躍がある。例えるなら1曲の中で緩急をつけるのでなく、楽器ごとに丁寧にチューニングして銘々演奏させ、それを「曲です」と言っている感じ。そして実際、曲として立派に成立している。
でも私が本当に惹かれたのは、さらに奥に感じた“何か巨大なもの”。 それが何かを知りたくて翌日もう1度この作品を観に行ったのだが、多分、西尾の頭の中には、人間の営みと自然がリアルに地続きなのではないか。去年の『おねしょ沼の終わらない温かさについて』も沼が舞台だったし、西尾の物語の中で自然は当たり前に、ぬけぬけと存在する。今作最高のシーンは、暗い山の上で便器にまたがり、1滴でいいから放尿したいと謙虚に願う老人だ。その名付け得ぬ孤独。あれは間違いなく闇の山頂でなければならなかった。
それにしても、去年の『おねしょ沼~』からの飛躍は奇跡的。俳優は全員よかったけど、特におじいさんを演じた若林里枝が、暗闇とか老いを体内に抱え、それを当たり前の軽やかさで外に出していてに感心した。
そして西尾の、尿に対するこだわりは何だ?(笑)
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# by word-robe89 | 2012-06-06 13:57 | 劇評

2011年の演劇アンケートに参加しない理由

年末になると「今年、印象に残った舞台を挙げてほしい」という連絡を数カ所からもらう。
「ベスト3」であったり、「演出賞、脚本賞、男優賞、女優賞」といった形だったり。
でも2011年の舞台のランキングに関しては、すべて回答しないことに決めた。
理由はやはり、東日本大震災が大きい。
3月10日までに観た舞台と、11日以降に観た舞台を、
どうしてもひとつの物差しで比べられない。

すでにそうしたアンケートに回答した人、これから回答する人、
自主的に「ベスト3」等を挙げた人が“ひとつの物差し”で
答えを出したとは微塵も考えていない。
苦しみを伴う熟考の末に出したカギカッコ付きでの結論だということは、
想像できているつもりだ。
自分もそうしてみようと考えて、2011年のスケジュール帳を遡ってめくった。
でも3月10日までに観た舞台の「素晴らしかった」と、
11日以降に観た舞台の「素晴らしかった」の間にある亀裂を埋める
カギカッコが、まだ私には見つからない。

あらかじめ書くと、大きな余震や節電絡みの警告がある中で上演を決行した
主催者やつくり手を私は基本的に尊敬している。
また、その劇場に集まった人達が感じたイレギュラーなテンションやシンパシーを
否定するつもりもまったくない。
なぜならそれらは間違いなく演劇体験だから。
演劇が自らの最大の特長としてアナウンスしているライブ性とは、
そういうことをも完全に包括する。
いつもと違う状況下で全身の神経が鋭敏になり、
普段なら感じ得ない脚本や演技の領域をも読み取って、
または脚本や演技の存在を初めて忘れることができて、
結果的にその時に観た舞台が2011年のベスト1だったという人もいるはずで、
それはかけがえのない「2011年の私の1本」だろう。

でも一定数の舞台を比較して、
いずれかを落とし、いずれかを選び取る時、
「震災後のあの状況で…」や「あの震災を経て一層この作品の意味が…」という情報を
含めた上で「いい作品だった」という評価に結び付けるのはフェアだろうか。
企画時はごく普通の公演だったのに、
震災があったから社会的な意味が生まれた公演は少なくない。
もちろん「こんな時、演劇に何ができるのか?」を問うために
演目が急遽変更された公演もあった。
演劇は生き物であり、企画から発表までのフットワークが軽いから、
社会の出来事をどうしたって映してしまう、あるいは、映すことができるわけで、
それはまったく間違っていない。
だが3月10日までの公演は、
そうした問いかけのタイミングから弾かれたものとして
捨て置いていいのだろうか──。
そしてその疑問は、ほとんど同時に次の疑問も連れてくる。
「震災は震災、舞台は舞台」という勇敢な無邪気さで、
3月10日以前の舞台を評価していいものか。
それこそ、震災以降の舞台と同じ枠の中で評価することに反するのではないか。
また、同じ“震災後”の公演でも、
直後の暗い躁状態をまとった公演と、
時間を置いて内省をまとった公演があるが、
観客として前者に興奮して後者に醒めた自分がいたとして、
それは作品のクオリティによるものなのだろうか。
とは言え、フェアネスを拡大解釈して、
2011年から震災を一切無視するほうがいびつだし、何より不可能だし、
だからと言って「震災前のベスト3」と「震災後のベスト3」を
分けて選出するような方法は、やはり大きな何かを斬り捨てるようで抵抗がある。
いや、そもそもランク付けは個人の嗜好であり、
フェアになるはずはないのだ、フェアである必要もないのだ、という意見もあるだろう。
それも正しいのかもしれない。
でもできるだけフェアであろうとして、
もしくはフェアとは何かを考えるために立ち止ることも
間違ってはいないのではないかと、今の私は思う。


元をただせばこの数年、いろいろな団体から
「ベスト3」や「ベスト1」をリクエストされることに抵抗が生まれてきていた。
主催者によって主旨が異なっていて、
Aのアンケートでは採り上げられなかった作品がBでは採り上げられるから
引き受けようといった自分の都合もあったし、
評価の場が少ない演劇というジャンルでは、
そうした機会に名前が挙がることが少しでもつくり手の労いになれば
という気持ちもあって、求められるまま参加してきた。
けれどあれもこれも、選出者の回答をただ並べて終わり。
「そこから見える○○年の演劇界はあなた次第」であり、総括も何もない。
「あなた次第」という投げかけは確かに大切だし、大人の振る舞いとも言えるが、
データを集めたら解析し、吟味し、論じるという手間をかける主催者が、
強い言葉で言うなら集めた責任を取る主催者が、
ひとつぐらいあってもいいのではないかと思う。
自分達はどんな目的があってアンケートを取っているのか。
それによって何を示したいのか。
選者はどんな基準で集めたのか。
集まった結果から何を読み取ったのか。
それを何に活用するのか。
過去の結果と照らし合わせて今年の傾向を導き出すことはしないのか。
たとえば、主宰者の代表と誰かの「この舞台が私のベスト1」という対談や
座談会を、なぜ開かないのか。
アンケートの結果を複数で議論する場を、なぜ設けないのか。
何より、ランキングを並べて終わり、という姿勢は、
演劇作品の消耗品化を容認してはいないか。

選ぶという行為に付いて回る、「選んだ理由」と「選ばなかった作品の存在」を、
結果的にではあっても、アンケートやランキングは軽々と無視してしまう。
その「軽々と」が、2011年を振り返った重さと釣り合いが取れない。
だから私は少なくとも2011年分に関して、その参加を一切やめる。
もっと生産的な振り返りが、今年の年末はあるといいのだが。
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# by word-robe89 | 2012-01-05 21:33 | 演劇諸々

2011年9月に観た芝居数本の感想

9月に観たいくつかの舞台の感想を駆け足で。順番は、観た順ではありません。

オイスターズの『雑音』は、ワンダーランドのクロスレビューに書かせていただくはずが、締切を過ぎてしまったので自主的にここで。なので、クロスレビューのスタイルに則って星をつけました。関係者の皆さま、申し訳ありません。


文学座『連結の子』

何よりも大きな欠点は、主人公の母親の存在感が、あまりに希薄なこと。脚本も演出も、登場人物の中で最も手をかけていないのが母親だった。
それがなぜ問題かと言えば、作品のテーマが、タイトルが示すように「連綿と続く家族のDNA」だから。この作品が示した「連結」が、祖父、父、叔父、主人公という男だけの、しかも「鉄道好き」という具体的なつながりに収束しまったのは、かなり残念。彼らを、短い時間のタームでつながった具体的な連結とするならば、もっと長いタームの、目には見えない連結を女性に託せば、この話は何倍も輝いたはずだ。
亡き祖母は劇中ずっと、尊敬され、感謝され、謝罪され、愛される存在なのに、あと数年もすれば孫が生まれて祖母になるであろう、つまり、家族のバトンを渡されるであろう母親には、その片鱗も描き込みがない。それに伴ってか、演じた俳優の意識も、自ら役を深めようとした気配が感じられなかった。せっかく“不肖の息子を持つ母親”という設定が祖母とかぶっているのに、母親は、鈍感な愛情を間の悪いタイミングで押し付ける人でしかなく、死んだ祖母=善、生きている母親=悪、というきわめて単純な構造は、私にはむしろ不自然にさえ感じられた。さらに言えば、その娘である主人公の妹も、作品におもしろみのアクセントを付ける役割に終始し、祖母や母との連結がイメージできるような点を見受けられなかった。
とは言え、主人公の青くさい苦悩が、ある地点へ到達する際の熱量ある禊は、田村孝裕の作品としては久々の“書き上げた感”ありで、何らかの賞を受賞するのではないか。


てがみ座『空のハモニカ』

脚本(長田育恵)にも演出(扇田拓也)にも、何ひとつ目新しさは、ない。ザ・スタンダード。でもスタンダードであることの強さと清潔感が全編に満ちて、何という品のある迫力だったろう。
金子みすゞの半生を描いた作品で、史実と創作が見事に掛け合わさっているが、素晴らしいのは、中心にみすゞを置きながらも、書き手の視線がどの人物にも平等であるところ。群像劇なのではない、主人公は完全にみすゞなのに、である。
長田さんの脚本に私はこの作品で初めて接したので、いつもの作風などは知らないし、大げさに聞こえてしまうかもしれないが、長田さんという劇作家の、命に対する視線の平等ぶりが徹底しているのではないかと、確信に近い想像をした。この人こそ、新劇の魂を受け継ぎながら、新劇に新しい広がりを生むのではないか。これは確信を伴う願い。
次回公演は、シアタートラムのネクスト・ジェネレーションだそう。選ばれたことに納得。


柿喰う客『悩殺ハムレット』

女優だけで『ハムレット』というアイデアは特に突飛ではないけれど、ワンアイデアでよく最後まで走り抜けたと思う。今回用いられた日本語は「設定がホストクラブだから」とか「若者にもわかるように」という理由よりも、一気に走り抜けるために必要なスピードが出せる、という選択なのだろう。
そして、もしかしたら「今さら」な発見なのかもしれないが、人のせりふを聞いている時の登場人物が全員、リズムを取っていて、中屋敷さんが演出した『ナツヤスミ語辞典』がなぜ私には退屈で、なぜこれまで気にならなかった柿作品の音楽がやたらと気になったかが理解できた。
キャラメルボックスとのコラボでは、中屋敷メソッドのカウントが取れる俳優とそうでない俳優がはっきりと分かれたから、リズム感が悪い(あくまでも中屋敷演出において)俳優のもたつく体や発話が、音楽を悪目立ちさせたのだ。
このリズム感という点で、柿喰う客のメンバー以外でそれをモノにしていたのは、範宙遊泳の熊川ふみさんと岡田あがささん。熊川さんはやや前乗りでリズムをつかむタイプで、岡田さんはゆっくりとリズムに乗って堂々としていられる。


水素74%『謎の球体X』

青年団系というより、城山羊の会系と呼びたくなる、狂った夫婦とその周辺の狂った人々の話。その狂い方が複層的で──登場人物は悲惨な状況にいるが、その悲惨さの中に「私の幸福」を嗅ぎ取って、密かに甘く味わっている──、観ている間、ずっとゾクゾクしていた。そして、人々の狂気を形作っているのが、何気なく作品に散りばめられた数々の“約束”であるところに、まだ20代であるらしい作・演出の田川啓介さんの、物語を利用するキレを感じた。
でも何がいいって、上演時間の中で話を収めようとはハナから考えていない(ように思えた)ところ。だから、物語の背景に、何か物語とは別の時間軸、大きな広がりを感じさせたし、ラストが乱暴にぶったぎられても一向に気にならなかった。


オイスターズ『雑音』 ★★

脱力系の不条理劇を狙っていることはわかる。それにふさわしい演技力と味わいを備えている俳優も何人かいる(少なくとも3人。これは凄いことだ)。けれど、脱力系=ゆっくり話す、丁寧に説明する、ということではない。「ボケ」と「ツッコミ」という言葉をあえて使うが、もっと堂々とボケればいい。そしてツッコミを入れるなら、もっと言葉を刈り込まなければ。もしくはどこに差し挟むかのタイミングを、もっと考えなければ。笑い(推進)を生むはずのツッコミが、ブレーキになっていた。また、コントでなく演劇である以上、ボケとツッコミで先へと広がる物語を紡がなければ。
そしてとにかくタイトルが悪い。内容が決まる前に、申請関係やチラシの印刷のためにタイトルを決めなければならないという事情があるにせよ、自分達の世界観が伝わる、伝えようとする意志が感じられるタイトルは必須。このタイトルはあまりにも、事無かれ主義だ。
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# by word-robe89 | 2011-10-27 18:32 | 劇評

7月に観た芝居いくつか

サンプル『ゲヘナにて』三鷹芸術文化センター

大きなスロットマシンをイメージした。
複数の事象が並列で、それぞれに、バラバラのリズムで、運動している。微妙に影響し合いながらも、絵だの数字だのが揃うことは決してないスロットマシン。揃わないからこそ終わるこのとない、永久の運動体。
でも松井さんが描きたかったのはスロットマシンではなく、そうした自由で豊かな運動体さえほんの一部である、とてつもなく大きなものだったのではないかと思う。タイトルになぞらえていえば、それはゲヘナ(地獄)だし、天国にだって置き換え可能だ。
大き過ぎて私達の視界には入りきらないものの存在を、チープな小道具、イミテーション感に満ちたメタファー、何かの“途中”であることを感じさせる状態と場所、それらをつなげていくユーモアで感じさせたのは、さすが松井さん、さすがサンプル。
ただ、1回だけでいいからスロットの目が揃う瞬間を見せてもらえたら、観劇体験としてのカタルシスは比べようもなく大きく違っただろうな、とも夢想する。


『幽霊たち』パルコ劇場

奥田瑛二が抜群。舞台俳優として、あんなに秀でているんだと驚いた。出番のほとんどが、ただ座って本を読んでいるだけなのに、空間的にも時間的に物語“もつ”のだ。
小説よりも舞台のほうが、ミスター・ホワイトとミスター・ブラックが同一人物であることが早々にわかってしまうのだけれど、それでも興ざめさせないし、なぜ彼が探偵に自分を延々と観察させるのかという大きな謎に対する答えが、奥田の体の中に存在している。白井晃のオースター作品の今後のキーパーソンは、彼かもしれない。
そしてオースター作品特有の絵画的な時間感覚は、小野寺修二の振付ととても相性がいい。これも大きな収穫。


『おもいのまま』あうるすぽっと

たしか最初の企画の段階で、脚本のクレジットはなかったと記憶する。にわかにそれが加わった印象があって、よくない予感を感じていたのだが、残念なことにそれが当たった。
水難事故で子供を亡くした夫婦、しかも数年間も死体が見つからなかった、というデリケートな大前提が、夫婦の現在にまったく反映されていない。正義のスクープを取るために殺人さえも犯そうとするジャーナリストの心情の描き方も、あまりにも杜撰だ。
いや、それらは枝葉の部分であって、現実は選択の仕方でいくらでも変わっていくという問題がテーマなのだろう。だとしても、そのテーマはすでにさまざまな作品で繰り返し採り上げられているわけで、あえてそれをやった成果を感じ取れなかった。
言葉にならない不吉な予感、人に選択を促す無意識、忘れたつもりになっている死んだ子への呼びかけなど、演出の飴屋法水が忍び込ませた音の仕掛けも、私には効果的だとは思えなかった。


『牡丹灯籠』ハイリンド

あんなに超満員の日暮里d-倉庫は初めて。
でも、クチコミで当日券の観客がどんどん増えたのがわかる完成度の高さ。演出の西沢栄治は、入り組んだ人間関係が同時進行で進んでいくストーリーを、何段階かで高さを変えた舞台で手際よく見せていく。俳優達も達者。客演も健闘していたが、やはりハイリンドの俳優が要所を締める。
ひとつだけ残念だったのは、原作が落語であることに敬意を表してだろう、すべての小道具を手ぬぐいと扇子で演じていたのに、槍だけ、杖(じょう。私は西沢さんに「棒」と言ってしまって無知をさらした)を使ったこと。レベルの高い要求であることはわかるのだが、俳優が上手いだけに、もしかしたら扇子か手ぬぐいでも迫力を出せたかもしれない、と思った。


『血の婚礼』大規模修繕劇団

具象の勝利。90分、ほぼノンストップで7トンの雨を降らす。その負荷が俳優の切実さと色気につながっているのも確かだけれど、その雨と暗闇、そしてスピーカーから朗読される詩で、にしすがも創造舎が本当に森の湿度を獲得し、登場人物が血を求める理由を観客の皮膚に届けた。丸山智巳、近藤公園が◎。窪塚洋介も大健闘だったけど、蜷川が稽古前にインタビューで「この作品で窪塚君にユーモアをプレゼントしたい」と話していた目標値までは届かず。次作に期待。
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# by word-robe89 | 2011-07-17 12:34 | 劇評

2011年6月24日

感想をゆっくり書きたい芝居は何本もあったし、何よりも3月11日という日があった。
立ち止って考える機会になったと言うより、
一歩も足が動かない、という状態があった。
その間に見たこと、見えてしまったこと、感じたこと、考えたこと、
気付いたことは、とにかく書き留めておかなければならないと思う。


けれど今、6月24日、書いておこうと思うのは「芸劇eyes番外編」についてだ。
実は芸劇の中で打ち合わせをしている時はずっと「番外編」と呼んでいて、
世の中でもそう呼ばれるものだと思っていたら、
キャッチフレーズとして付けた『20年安泰。』が、あまりにも広まって驚いた。
『20年安泰。』の流通が、私にとってどれくらい不測の事態だったかと言うと、
この言葉をいまだにPCに単語登録していないくらい。
まさかこんなに何度も何度も使うことになるとは思っていなかったのだ。
流通しただけでなくさまざまな解釈を呼んで──そこには少なからず3月11日以降の
問題が存在するのだけれど、それにしても様々な反応があった──、
まさに名前が勝手にひとり歩きして、その間に揉まれたり撫でられたりして、
たくましく育っていった感覚があった。

演劇は、どんなに個人的な考えや初期衝動からスタートしても、
舞台として上演すれば社会に放たれ、ある運動になる。
そんな当たり前のことを、『20年安泰。』から生じた反応を通じて、
制作サイドに立って、改めて実感した。


それにしても、つくづく、ワンダーランドのあの鼎談(※)は大きかった。
※http://www.wonderlands.jp/archives/12664/
今、調べたら、まだ1年経っていなくてびっくり。
あの時、うすらぼんやりとした私の提案を形にしてくれた北嶋さんに感謝。
快く参加して、話の内容を深めてくれた藤原さん、日夏さんにも。
おふたりとは、あの時がちゃんと話をした最初だったかもしれない。
さらに遡ると、ワンダーランドの連載「わたしのお薦め」鼎談が始まりか。
ジエン社は、そこで親しくなったカトリヒデトシさんが
推薦のメールをくれて観に行ったんだった。




いよいよ今日が初日。
でも、まだまだ、と思う。
最初から完成に近い形で作品を持ってきてくれた劇団と、
稽古場で手探りしながらつくっている劇団があって、
どちらの粘りも大変なものだが、特に後者のここ数日の飛躍は半端ない。
でも、彼らのポテンシャルを考えたら、まだまだ良くなる。
そしてまだまだ開演まで時間はある。
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# by word-robe89 | 2011-06-24 05:16 | 雑感