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徳永京子(演劇ジャーナリスト)の覚え書きなど。Twitterもやってます。アカウントはk_tokunaga
by word-robe89
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2011年の演劇アンケートに..
at 2012-01-05 21:33
2011年9月に観た芝居数本..
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7月に観た芝居いくつか
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シアターコクーン『十二夜』
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2011年の演劇アンケートに参加しない理由
年末になると「今年、印象に残った舞台を挙げてほしい」という連絡を数カ所からもらう。
「ベスト3」であったり、「演出賞、脚本賞、男優賞、女優賞」といった形だったり。
でも2011年の舞台のランキングに関しては、すべて回答しないことに決めた。
理由はやはり、東日本大震災が大きい。
3月10日までに観た舞台と、11日以降に観た舞台を、
どうしてもひとつの物差しで比べられない。

すでにそうしたアンケートに回答した人、これから回答する人、
自主的に「ベスト3」等を挙げた人が“ひとつの物差し”で
答えを出したとは微塵も考えていない。
苦しみを伴う熟考の末に出したカギカッコ付きでの結論だということは、
想像できているつもりだ。
自分もそうしてみようと考えて、2011年のスケジュール帳を遡ってめくった。
でも3月10日までに観た舞台の「素晴らしかった」と、
11日以降に観た舞台の「素晴らしかった」の間にある亀裂を埋める
カギカッコが、まだ私には見つからない。

あらかじめ書くと、大きな余震や節電絡みの警告がある中で上演を決行した
主催者やつくり手を私は基本的に尊敬している。
また、その劇場に集まった人達が感じたイレギュラーなテンションやシンパシーを
否定するつもりもまったくない。
なぜならそれらは間違いなく演劇体験だから。
演劇が自らの最大の特長としてアナウンスしているライブ性とは、
そういうことをも完全に包括する。
いつもと違う状況下で全身の神経が鋭敏になり、
普段なら感じ得ない脚本や演技の領域をも読み取って、
または脚本や演技の存在を初めて忘れることができて、
結果的にその時に観た舞台が2011年のベスト1だったという人もいるはずで、
それはかけがえのない「2011年の私の1本」だろう。

でも一定数の舞台を比較して、
いずれかを落とし、いずれかを選び取る時、
「震災後のあの状況で…」や「あの震災を経て一層この作品の意味が…」という情報を
含めた上で「いい作品だった」という評価に結び付けるのはフェアだろうか。
企画時はごく普通の公演だったのに、
震災があったから社会的な意味が生まれた公演は少なくない。
もちろん「こんな時、演劇に何ができるのか?」を問うために
演目が急遽変更された公演もあった。
演劇は生き物であり、企画から発表までのフットワークが軽いから、
社会の出来事をどうしたって映してしまう、あるいは、映すことができるわけで、
それはまったく間違っていない。
だが3月10日までの公演は、
そうした問いかけのタイミングから弾かれたものとして
捨て置いていいのだろうか──。
そしてその疑問は、ほとんど同時に次の疑問も連れてくる。
「震災は震災、舞台は舞台」という勇敢な無邪気さで、
3月10日以前の舞台を評価していいものか。
それこそ、震災以降の舞台と同じ枠の中で評価することに反するのではないか。
また、同じ“震災後”の公演でも、
直後の暗い躁状態をまとった公演と、
時間を置いて内省をまとった公演があるが、
観客として前者に興奮して後者に醒めた自分がいたとして、
それは作品のクオリティによるものなのだろうか。
とは言え、フェアネスを拡大解釈して、
2011年から震災を一切無視するほうがいびつだし、何より不可能だし、
だからと言って「震災前のベスト3」と「震災後のベスト3」を
分けて選出するような方法は、やはり大きな何かを斬り捨てるようで抵抗がある。
いや、そもそもランク付けは個人の嗜好であり、
フェアになるはずはないのだ、フェアである必要もないのだ、という意見もあるだろう。
それも正しいのかもしれない。
でもできるだけフェアであろうとして、
もしくはフェアとは何かを考えるために立ち止ることも
間違ってはいないのではないかと、今の私は思う。


元をただせばこの数年、いろいろな団体から
「ベスト3」や「ベスト1」をリクエストされることに抵抗が生まれてきていた。
主催者によって主旨が異なっていて、
Aのアンケートでは採り上げられなかった作品がBでは採り上げられるから
引き受けようといった自分の都合もあったし、
評価の場が少ない演劇というジャンルでは、
そうした機会に名前が挙がることが少しでもつくり手の労いになれば
という気持ちもあって、求められるまま参加してきた。
けれどあれもこれも、選出者の回答をただ並べて終わり。
「そこから見える○○年の演劇界はあなた次第」であり、総括も何もない。
「あなた次第」という投げかけは確かに大切だし、大人の振る舞いとも言えるが、
データを集めたら解析し、吟味し、論じるという手間をかける主催者が、
強い言葉で言うなら集めた責任を取る主催者が、
ひとつぐらいあってもいいのではないかと思う。
自分達はどんな目的があってアンケートを取っているのか。
それによって何を示したいのか。
選者はどんな基準で集めたのか。
集まった結果から何を読み取ったのか。
それを何に活用するのか。
過去の結果と照らし合わせて今年の傾向を導き出すことはしないのか。
たとえば、主宰者の代表と誰かの「この舞台が私のベスト1」という対談や
座談会を、なぜ開かないのか。
アンケートの結果を複数で議論する場を、なぜ設けないのか。
何より、ランキングを並べて終わり、という姿勢は、
演劇作品の消耗品化を容認してはいないか。

選ぶという行為に付いて回る、「選んだ理由」と「選ばなかった作品の存在」を、
結果的にではあっても、アンケートやランキングは軽々と無視してしまう。
その「軽々と」が、2011年を振り返った重さと釣り合いが取れない。
だから私は少なくとも2011年分に関して、その参加を一切やめる。
もっと生産的な振り返りが、今年の年末はあるといいのだが。
# by word-robe89 | 2012-01-05 21:33 | 演劇諸々
2011年9月に観た芝居数本の感想
9月に観たいくつかの舞台の感想を駆け足で。順番は、観た順ではありません。

オイスターズの『雑音』は、ワンダーランドのクロスレビューに書かせていただくはずが、締切を過ぎてしまったので自主的にここで。なので、クロスレビューのスタイルに則って星をつけました。関係者の皆さま、申し訳ありません。


文学座『連結の子』

何よりも大きな欠点は、主人公の母親の存在感が、あまりに希薄なこと。脚本も演出も、登場人物の中で最も手をかけていないのが母親だった。
それがなぜ問題かと言えば、作品のテーマが、タイトルが示すように「連綿と続く家族のDNA」だから。この作品が示した「連結」が、祖父、父、叔父、主人公という男だけの、しかも「鉄道好き」という具体的なつながりに収束しまったのは、かなり残念。彼らを、短い時間のタームでつながった具体的な連結とするならば、もっと長いタームの、目には見えない連結を女性に託せば、この話は何倍も輝いたはずだ。
亡き祖母は劇中ずっと、尊敬され、感謝され、謝罪され、愛される存在なのに、あと数年もすれば孫が生まれて祖母になるであろう、つまり、家族のバトンを渡されるであろう母親には、その片鱗も描き込みがない。それに伴ってか、演じた俳優の意識も、自ら役を深めようとした気配が感じられなかった。せっかく“不肖の息子を持つ母親”という設定が祖母とかぶっているのに、母親は、鈍感な愛情を間の悪いタイミングで押し付ける人でしかなく、死んだ祖母=善、生きている母親=悪、というきわめて単純な構造は、私にはむしろ不自然にさえ感じられた。さらに言えば、その娘である主人公の妹も、作品におもしろみのアクセントを付ける役割に終始し、祖母や母との連結がイメージできるような点を見受けられなかった。
とは言え、主人公の青くさい苦悩が、ある地点へ到達する際の熱量ある禊は、田村孝裕の作品としては久々の“書き上げた感”ありで、何らかの賞を受賞するのではないか。


てがみ座『空のハモニカ』

脚本(長田育恵)にも演出(扇田拓也)にも、何ひとつ目新しさは、ない。ザ・スタンダード。でもスタンダードであることの強さと清潔感が全編に満ちて、何という品のある迫力だったろう。
金子みすゞの半生を描いた作品で、史実と創作が見事に掛け合わさっているが、素晴らしいのは、中心にみすゞを置きながらも、書き手の視線がどの人物にも平等であるところ。群像劇なのではない、主人公は完全にみすゞなのに、である。
長田さんの脚本に私はこの作品で初めて接したので、いつもの作風などは知らないし、大げさに聞こえてしまうかもしれないが、長田さんという劇作家の、命に対する視線の平等ぶりが徹底しているのではないかと、確信に近い想像をした。この人こそ、新劇の魂を受け継ぎながら、新劇に新しい広がりを生むのではないか。これは確信を伴う願い。
次回公演は、シアタートラムのネクスト・ジェネレーションだそう。選ばれたことに納得。


柿喰う客『悩殺ハムレット』

女優だけで『ハムレット』というアイデアは特に突飛ではないけれど、ワンアイデアでよく最後まで走り抜けたと思う。今回用いられた日本語は「設定がホストクラブだから」とか「若者にもわかるように」という理由よりも、一気に走り抜けるために必要なスピードが出せる、という選択なのだろう。
そして、もしかしたら「今さら」な発見なのかもしれないが、人のせりふを聞いている時の登場人物が全員、リズムを取っていて、中屋敷さんが演出した『ナツヤスミ語辞典』がなぜ私には退屈で、なぜこれまで気にならなかった柿作品の音楽がやたらと気になったかが理解できた。
キャラメルボックスとのコラボでは、中屋敷メソッドのカウントが取れる俳優とそうでない俳優がはっきりと分かれたから、リズム感が悪い(あくまでも中屋敷演出において)俳優のもたつく体や発話が、音楽を悪目立ちさせたのだ。
このリズム感という点で、柿喰う客のメンバー以外でそれをモノにしていたのは、範宙遊泳の熊川ふみさんと岡田あがささん。熊川さんはやや前乗りでリズムをつかむタイプで、岡田さんはゆっくりとリズムに乗って堂々としていられる。


水素74%『謎の球体X』

青年団系というより、城山羊の会系と呼びたくなる、狂った夫婦とその周辺の狂った人々の話。その狂い方が複層的で──登場人物は悲惨な状況にいるが、その悲惨さの中に「私の幸福」を嗅ぎ取って、密かに甘く味わっている──、観ている間、ずっとゾクゾクしていた。そして、人々の狂気を形作っているのが、何気なく作品に散りばめられた数々の“約束”であるところに、まだ20代であるらしい作・演出の田川啓介さんの、物語を利用するキレを感じた。
でも何がいいって、上演時間の中で話を収めようとはハナから考えていない(ように思えた)ところ。だから、物語の背景に、何か物語とは別の時間軸、大きな広がりを感じさせたし、ラストが乱暴にぶったぎられても一向に気にならなかった。


オイスターズ『雑音』 ★★

脱力系の不条理劇を狙っていることはわかる。それにふさわしい演技力と味わいを備えている俳優も何人かいる(少なくとも3人。これは凄いことだ)。けれど、脱力系=ゆっくり話す、丁寧に説明する、ということではない。「ボケ」と「ツッコミ」という言葉をあえて使うが、もっと堂々とボケればいい。そしてツッコミを入れるなら、もっと言葉を刈り込まなければ。もしくはどこに差し挟むかのタイミングを、もっと考えなければ。笑い(推進)を生むはずのツッコミが、ブレーキになっていた。また、コントでなく演劇である以上、ボケとツッコミで先へと広がる物語を紡がなければ。
そしてとにかくタイトルが悪い。内容が決まる前に、申請関係やチラシの印刷のためにタイトルを決めなければならないという事情があるにせよ、自分達の世界観が伝わる、伝えようとする意志が感じられるタイトルは必須。このタイトルはあまりにも、事無かれ主義だ。



# by word-robe89 | 2011-10-27 18:32 | 劇評
7月に観た芝居いくつか
サンプル『ゲヘナにて』三鷹芸術文化センター

大きなスロットマシンをイメージした。
複数の事象が並列で、それぞれに、バラバラのリズムで、運動している。微妙に影響し合いながらも、絵だの数字だのが揃うことは決してないスロットマシン。揃わないからこそ終わるこのとない、永久の運動体。
でも松井さんが描きたかったのはスロットマシンではなく、そうした自由で豊かな運動体さえほんの一部である、とてつもなく大きなものだったのではないかと思う。タイトルになぞらえていえば、それはゲヘナ(地獄)だし、天国にだって置き換え可能だ。
大き過ぎて私達の視界には入りきらないものの存在を、チープな小道具、イミテーション感に満ちたメタファー、何かの“途中”であることを感じさせる状態と場所、それらをつなげていくユーモアで感じさせたのは、さすが松井さん、さすがサンプル。
ただ、1回だけでいいからスロットの目が揃う瞬間を見せてもらえたら、観劇体験としてのカタルシスは比べようもなく大きく違っただろうな、とも夢想する。


『幽霊たち』パルコ劇場

奥田瑛二が抜群。舞台俳優として、あんなに秀でているんだと驚いた。出番のほとんどが、ただ座って本を読んでいるだけなのに、空間的にも時間的に物語“もつ”のだ。
小説よりも舞台のほうが、ミスター・ホワイトとミスター・ブラックが同一人物であることが早々にわかってしまうのだけれど、それでも興ざめさせないし、なぜ彼が探偵に自分を延々と観察させるのかという大きな謎に対する答えが、奥田の体の中に存在している。白井晃のオースター作品の今後のキーパーソンは、彼かもしれない。
そしてオースター作品特有の絵画的な時間感覚は、小野寺修二の振付ととても相性がいい。これも大きな収穫。


『おもいのまま』あうるすぽっと

たしか最初の企画の段階で、脚本のクレジットはなかったと記憶する。にわかにそれが加わった印象があって、よくない予感を感じていたのだが、残念なことにそれが当たった。
水難事故で子供を亡くした夫婦、しかも数年間も死体が見つからなかった、というデリケートな大前提が、夫婦の現在にまったく反映されていない。正義のスクープを取るために殺人さえも犯そうとするジャーナリストの心情の描き方も、あまりにも杜撰だ。
いや、それらは枝葉の部分であって、現実は選択の仕方でいくらでも変わっていくという問題がテーマなのだろう。だとしても、そのテーマはすでにさまざまな作品で繰り返し採り上げられているわけで、あえてそれをやった成果を感じ取れなかった。
言葉にならない不吉な予感、人に選択を促す無意識、忘れたつもりになっている死んだ子への呼びかけなど、演出の飴屋法水が忍び込ませた音の仕掛けも、私には効果的だとは思えなかった。


『牡丹灯籠』ハイリンド

あんなに超満員の日暮里d-倉庫は初めて。
でも、クチコミで当日券の観客がどんどん増えたのがわかる完成度の高さ。演出の西沢栄治は、入り組んだ人間関係が同時進行で進んでいくストーリーを、何段階かで高さを変えた舞台で手際よく見せていく。俳優達も達者。客演も健闘していたが、やはりハイリンドの俳優が要所を締める。
ひとつだけ残念だったのは、原作が落語であることに敬意を表してだろう、すべての小道具を手ぬぐいと扇子で演じていたのに、槍だけ、杖(じょう。私は西沢さんに「棒」と言ってしまって無知をさらした)を使ったこと。レベルの高い要求であることはわかるのだが、俳優が上手いだけに、もしかしたら扇子か手ぬぐいでも迫力を出せたかもしれない、と思った。


『血の婚礼』大規模修繕劇団

具象の勝利。90分、ほぼノンストップで7トンの雨を降らす。その負荷が俳優の切実さと色気につながっているのも確かだけれど、その雨と暗闇、そしてスピーカーから朗読される詩で、にしすがも創造舎が本当に森の湿度を獲得し、登場人物が血を求める理由を観客の皮膚に届けた。丸山智巳、近藤公園が◎。窪塚洋介も大健闘だったけど、蜷川が稽古前にインタビューで「この作品で窪塚君にユーモアをプレゼントしたい」と話していた目標値までは届かず。次作に期待。
# by word-robe89 | 2011-07-17 12:34 | 劇評
2011年6月24日
感想をゆっくり書きたい芝居は何本もあったし、何よりも3月11日という日があった。
立ち止って考える機会になったと言うより、
一歩も足が動かない、という状態があった。
その間に見たこと、見えてしまったこと、感じたこと、考えたこと、
気付いたことは、とにかく書き留めておかなければならないと思う。


けれど今、6月24日、書いておこうと思うのは「芸劇eyes番外編」についてだ。
実は芸劇の中で打ち合わせをしている時はずっと「番外編」と呼んでいて、
世の中でもそう呼ばれるものだと思っていたら、
キャッチフレーズとして付けた『20年安泰。』が、あまりにも広まって驚いた。
『20年安泰。』の流通が、私にとってどれくらい不測の事態だったかと言うと、
この言葉をいまだにPCに単語登録していないくらい。
まさかこんなに何度も何度も使うことになるとは思っていなかったのだ。
流通しただけでなくさまざまな解釈を呼んで──そこには少なからず3月11日以降の
問題が存在するのだけれど、それにしても様々な反応があった──、
まさに名前が勝手にひとり歩きして、その間に揉まれたり撫でられたりして、
たくましく育っていった感覚があった。

演劇は、どんなに個人的な考えや初期衝動からスタートしても、
舞台として上演すれば社会に放たれ、ある運動になる。
そんな当たり前のことを、『20年安泰。』から生じた反応を通じて、
制作サイドに立って、改めて実感した。


それにしても、つくづく、ワンダーランドのあの鼎談(※)は大きかった。
※http://www.wonderlands.jp/archives/12664/
今、調べたら、まだ1年経っていなくてびっくり。
あの時、うすらぼんやりとした私の提案を形にしてくれた北嶋さんに感謝。
快く参加して、話の内容を深めてくれた藤原さん、日夏さんにも。
おふたりとは、あの時がちゃんと話をした最初だったかもしれない。
さらに遡ると、ワンダーランドの連載「わたしのお薦め」鼎談が始まりか。
ジエン社は、そこで親しくなったカトリヒデトシさんが
推薦のメールをくれて観に行ったんだった。




いよいよ今日が初日。
でも、まだまだ、と思う。
最初から完成に近い形で作品を持ってきてくれた劇団と、
稽古場で手探りしながらつくっている劇団があって、
どちらの粘りも大変なものだが、特に後者のここ数日の飛躍は半端ない。
でも、彼らのポテンシャルを考えたら、まだまだ良くなる。
そしてまだまだ開演まで時間はある。

# by word-robe89 | 2011-06-24 05:16 | 雑感
シアターコクーン『十二夜』
原作:シェイクスピア
翻訳:松岡和子
潤色・美術・演出・衣裳:串田和美
出演:松たか子、石丸幹二、りょう、荻野目慶子、大森博史、片岡亀蔵、笹野高史、串田和美ほか


気になった点から書くと、笹野さんの演技の質や
舞台の居方みたいなものが、串田さんと似過ぎている。
以前から思っていたことだけど、
この『十二夜』はその弊害がはっきり出てしまっした。
串田さん的な、“素の愛嬌”で舞台をメタ化するユルさは、もともとがかなりリスキー。
笹野さんにも“素の愛嬌”はあるけれど、
ひとつの作品にふたりのメタおじさんの存在は厳しい。
何しろメタ化は作品のスピードを落とし、観客が作品の世界に乗るタイミングを減らすのだ。
一幕はそれが影響して「つまらない」ではなく「退屈」な時間が長かった。

でも全体の世界観は決して嫌いじゃない。
原作は船が難破してようやくたどり着いた港町、という設定なのに、
セットの奥は一面の砂漠で、赤茶の砂の上に乗り上げた船が書き割りに描かれている。
オープニングはその砂漠に旅の楽団が通りかかるところから始まって、
主にせりふを言うのは、紙芝居の枠を大きくしたようなステージの上。
つまり、この『十二夜』は劇中劇だ。
そうした仕掛けはいかにも串田さんらしいし、
男女の双子のなりすまし劇なんていう、およそ非現実的な物語は、
それぐらいの距離感と牧歌的なパッケージで立体化するほうがスマートだ。

さて、問題は二幕の大詰め。
双子の兄セバスチャンと妹ヴァイオラが出会う、『十二夜』のトピック的シーンで
またも目撃してしまったのだ、松たか子のモンスター級演技を。

串田さんが本当にやりたかったのは、
先に書いた劇中劇的演出でも、
早替わりとか演じ分けといったビジュアルのトリックでもない。
本当に大切な存在を失った人間の深い深い悲しみと、
それを乗り越えるためにほとんど本能的に採った切ない行動を、
ヴァイオラに託してこの作品に差し挟むことだった。
派手な演出もない短いそのシーンは、
松さんの戯曲の鋭い読解力と優れたせりふ術によって、
シェイクスピアが書いた物語の時間をなめらかに一時停止し、
さらに2011年1月の東京渋谷へと時間を飛ばし、
観客(さっきまで居眠りしていた人も含め)の心に結晶し、
それが終わった途端、何事もなかったように時空の穴を閉じた。

ちなみに、そのシーンで松さんを見つめる笹野さんはとてもよかった。
一瞬ですべてを察知し、憐れみと理解を抱いた様子がよくわかった。
りょうさんは、圧倒的に美しいことに加えて、
舞台女優としてこんなにすごい人になっちゃった、という頼もしい存在感。
そして“バカ殿”エイギュチークを演じた亀蔵さんがとんでもない拾い物!
出てきて最初のせりふを言った途端、「誰この上手い人?」と思わせる
ポテンシャルに驚いたし、最初から最後まで素晴らしいバカ殿ぶりだった。

ところでこれを書きながら思ったんだけど、
砂漠で港町の話を上演するという、究極の“ないことを忘れた振り”は、
セバスチャンを思うヴァイオラの姿と見事に重なる。
でもきっとそれは深読みで、
串田さんもそこまでは意識していないんだろうな。



















# by word-robe89 | 2011-01-10 21:47 | 劇評

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